現在世界的に梅毒が流行していて、特に我が国においてはここ数年来大流行していて、未だに収まる気配はありません。
梅毒はクリストファー・コロンブス(1451~1506)が新大陸から持ち帰ったとされています。
京都の医師武田秀慶(?~1528)が1512年(永正9年)に著した『月海雑録』に外国から来た皮膚病という意味で「唐瘡(とうそう)」と書かれたのが最初とされています。
海外から新しく伝来したため、「瘡(かさ)」「楊梅瘡(ようばいそう)」、「黴瘡(ばいそう)」「ひえ」、「しつ」などと
結城秀康(1574~1607)・黒田官兵衛(1546~1604)・加藤清正(1562~1611)・間宮林蔵(1775~1844)なども梅毒とされています。
特に結城秀康は、梅毒で鼻がそげ、木製の鼻をつけていたそうです。
江戸時代の名医杉田玄白(1733~1817)も、1000人の患者を診るとその7~8割が梅毒患者と記しています。
昔の梅毒は鼻部の軟骨炎のために鞍鼻(あんび)や鼻の欠損になることがあり、夜鷹などには「鼻欠け」が多かったので、「鷹の名にお花お千代はきついこと」などと川柳に詠われています
“お花お千代”は“お鼻落ちよ”にかかっている。
江戸時代の梅毒の治療薬としては、山帰来(サンキライ)[別名:土茯苓(ドブクリョウ)]が広く用いられていましたが当然のことながら効き目はありませんでした。
江戸時代の医書に『梅毒の重症患者は山に捨てられる風習があったが、土茯苓を服用すると治癒し、山から帰って来たので"山帰来"とも名付ける』と記載されています。
当時山帰来は日本には自生しておらず、中国や朝鮮から輸入していました。
山帰来は貴重なものでしたから、山帰来に似たケナシサルトリイバラと呼ばれるユリ科の植物を代用していました。
杉田玄白の切手は発行されていませんので、「金原出版株式会社創業百年記念会 日本の医聖シール」の中の一枚に収められた杉田玄白を紹介しておきますが、これは切手ではなくシールです。
切手は2005年韓国発行の「染色用植物切手」の中の一枚で、サルトリイバラの赤く熟した実が描かれています。
切手は1989年ガンビア発行の「薬用植物切手」の中の一枚で、サルトリイバラの赤く熟した実が描かれています。
切手は2013年台湾発行の「通常切手」の中の一枚で、サルトリイバラの花が描かれています。
【おまけの話】
子どもの健やかな成長を願う【端午の節句】は、江戸時代までの五節句の中で、唯一祝日として現代に残った伝統行事で、柏餅を食します。
柏は新芽が出るまではが落ちないことから、子孫繁栄の意味を込めて柏の葉を使います。
今我々が食べている柏餅の葉っぱは柏の葉っぱではなく、サルトリイバラの葉っぱです。
特に西日本ではもともとサルトリイバラの葉っぱが使われてきました。
愛知県の大口屋から販売されている"餡麩三喜羅(あんぷさんきら)"は、塩漬けされたサルトリイバラの葉っぱに包まれています。
兎に角美味しいです!!