voxsangman’s blog

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世界史ミステリー79.明暦の大火-

この大火は明暦3年1月18日に出火し、20日までの2日にわたって江戸城の外堀以内のほぼ全域を焼きつくしました江戸三大大火(明和の大火・文化の大火・明暦の大火)と呼ばれています。

新暦の1657年3月2~4日※

この大火は、出火の状況から振袖火事(ふりそでかじ)、火元の地名から丸山火事(まるやまかじ)、この年の干支から丁酉火事(ひのととりのかじ)と呼ばれました。

江戸城江戸城天守閣をはじめ本丸、二の丸、三の丸、大名屋敷多数、市街地の大半を焼失し、30000~100000人の死者が出たとされています。

この火事で第4代征夷大将軍徳川家綱(1641~1680)の補佐をしていた保科正之(1611~1673)が江戸庶民救済を優先し、本丸や二の丸、三の丸が再建さますが天守閣はついに再建されなかった。

このような時に天守閣の再建にカネを費やすべきでないとの保科正之は考え、庶民の迷惑になるとまで言ったという記録が残っています。

そして大火の後、家康の江戸入り後からのごちゃごちゃした街並みを一掃して保科正之は江戸を防災に強い都市に改造する方針を打ち出し主要道路の道幅を拡幅するとともに、各地に火除けのための空き地や広小路を作った。

神田川を拡幅し、隅田川には初めて両国橋がかけられました。

この大火の火元が1ケ所ではなく、本郷・小石川・麹町の3か所から連続的に発生し、ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、甚大な被害を引き起こしたと考えられています。

この大火の原因は諸説あり、

1.振り袖の供養のため住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移したちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となったとされる説。

2.急激な人口の増加にともない、住居の過密化をはじめ、衛生環境の悪化による江戸の都市改造を実行するため幕府が放火したとする説。

3.火元は老中・阿部忠秋の屋敷だったが、老中屋敷からの失火は幕府の威信に関わることから幕府が隠蔽工作をして失火元は老中阿部邸に隣接する本妙寺が火元ということにしたことから、上記1と2の説を故意に広めたとする説。

切手は2003年日本発行の「江戸幕府400年記念切手」の中の一枚で、明暦の大火で消失した江戸城天守が描かれています。

 

2003年日本発行江戸幕府400年記念切手