voxsangman’s blog

世界の切手を使って医学・世界の出来事・神話・法則などをわかりやすく解説していきます。

世界史ミステリー73.電話機の発明者は誰??-

1871年頃イタリアの発明家アントニオ・メウッチ(1808~1889)が、重病の妻との会話を目的に電話を発明しますが、経営していた会社が倒産し資金難に陥ったことから、電話機の特許申請料を払えないという悲運に見舞われました。

それから5年後の1876年1月、あのトーマス・エジソン(1847~1931)も電話機の特許を取得しようとしますが、書類の不備が原因で彼も特許を取得できませんでした。

電話の発明者とされるグラハム・ベルが、アメリカの特許庁に特許を出願したのは、1876年1月エジソンが特許申請を行いますが書類不備となった1カ月後の1876年2月14日午前11時頃で、ベルに遅れること2時間後電話のもととなる機器を発明したイライシャ・グレイ(1835~1901)も特許を出願しますが、アメリカの制度では先に特許を出願したものを優先するため、電話機の特許はベルのものになりました。

しかし、電話の発明者については2002年、アメリカ合衆国議会で「イタリアのメウッチが最初に電話を発明した」と認める決議が行なわれその結果、電話の発明者としての栄誉はメウッチのものになったのです。

アレクサンダー・グラハム・ベルは、1876年に実用になる電話機の特許を取得し、一般には電話を発明したとされていますが、ベルの特許はメウッチの装置と類似していたため、特許無効訴訟が起こされますが最終的に、ベルは特許を維持することができましたが、メウッチの功績は現在でも認められています。

電話の発明者は、3人となり今なお議論の余地がある問題です。

アメリカの発明家・技術者のイライシャ・グレイ(1835~1901)は、電話の発明者ではありませんが、電話の発明に大きく貢献した人物です。

グレイは2年以上前から電話の実験で液体送信機を使用していたため、グレイを真の電話の発明者とみなすべきだと主張する者もいますが、ベルの電話特許が多数の判決において支持されたことからベルに電話発明の軍配が上がることになります。

グレイは、ベルよりも早く電話機を開発しており、ベルの特許はグレイの装置と類似していたことからして、グレイがベルよりも早く特許を取得していたら、ベルではなくグレイが電話の発明者として知られていたかもしれません。

電話は、人々のコミュニケーションを大きく変えた画期的な発明でメウッチとベルの両者は、電話の発明に大きく貢献したことには誰も異議を唱えないでしょう。

アントニオ・メウッチとイライシャ・グレイの切手は発行されていないので、ここではエジソンとベルの切手を紹介します。

 

切手は1948年ハンガリー発行の「探検家と発明家切手」の中の一枚で、エジソンと彼の発明した映画が描かれています。

 

1948年ハンガリー発行探検家と発明家切手

 

切手は2016年シエラレオネ発行の「トーマス・エジソン没後85年記念小型シート」で、エジソンと彼の発明した映画・電球・電話機が描かれています。

 

2016年シエラレオネ発行トーマス・エジソン没後85年記念小型シート

切手は1976年リベリア発行の「グラハムベルの電話発明100周年小型シート」で、1876年にベルが最初に電話の公開実験をした光景が描かれています。

 

1976年リベリア発行グラハムベルの電話発明100周年小型シート

切手は1976年ハンガリー発行の「グラハムベルの電話発明100周年4枚組シート」で、ベルの肖像とともに、当時の電話機のスピーカ部と現在の通信システムが描かれています。

 

1976年ハンガリー発行グラハムベルの電話発明100周年4枚組シート

 

世界史ミステリー72.伝説か実話か?「ロビンフッドは実在したのか」-

ロビンフッドは中世にの英雄や義賊として伝えられていますが、彼が実在したのか、それとも伝説の存在なのかについて解説させていただきます。

その前にロビンフッドの起源について分かりやすく解説していきます。

ロビンフッドは、イギリス文化において非常にポピュラーな存在であり、古代イギリスの生活や伝説的英雄たちの物語に深く絡んでいます。

彼が伝説的存在になる前に何があったのでしょうか?

ロビンフッド英語圏でよく知られたキャラクターであり、彼の物語は多くの映画や小説で描かれていますが、これらの物語が真実なのかどうかは疑問があります。

ロビンフッド伝説の起源は、イギリスの中世に遡ります。

英雄的なアウトローとしての彼のイメージは、この時代の伝承から着想を得ています。

しかし、この伝承が実在の人物に基づいているかどうかは明確ではありません。

多くの歴史家は、ロビンフッドが単なる創作キャラクターである可能性が高いと考えられている一方、ロビンフッドが実在したという根拠もあります。

たとえば、13世紀と14世紀の文書には、実在するロビンフッドやその仲間たちに関する記述が見られ、彼の伝説的な活躍は王位継承戦争や14世紀の農民反乱など、当時の社会情勢とも関係があるとされています。

以上から、ロビンフッド伝説が真実かどうかは不明ですが、彼が実在した可能性もゼロではありません。

中世のイングランドは王権と一揆、貴族と農民の闘争が激しく、混沌としていた時期でした。

さらに貴族や聖職者に厳しい圧政が敷かれ、一般民衆にとっても困難な時期であり、農民や貧しい人々は十分な食料や居住地に恵まれず、反乱を起こすことがありました。

14世紀には100年戦争と黒死病が蔓延し、王位継承戦争も発生し、イギリスは際限ない暴力事件に直面していました。

そのような混沌とした世相の中で、ロビンフッドは実在したのか?

ロビンフッド像は、三角帽子をかぶり、緑色の衣装を身に着け、弓と矢を持った強盗団のリーダーとして描かれ、貧しい人々を助け、富裕層から奪い取り、多くの場合、彼の信頼できる仲間たちとともに戦いを繰り広げたと伝えられていますが、実際のロビンフッドがどのような像を持っていたかは不明です。

一部の歴史家は、彼が実在したかもしれないと信じていますが、その証拠は限られていてロビンフッド像は後世の風刺的イメージ、文学作品、映画で親しまれ、彼の存在は長年にわたって疑問視され続けててます。

彼の物語は、多くの映画やテレビ番組などで扱われ今も多くの人々に愛されています。

また、イングランドノッティンガムで毎年開かれるロビンフッドフェスティバルも、その影響を示しています。

彼の物語は、中世イングランドの歴史に深く根ざしたものですが、実在については明確な証拠がありません。

つまり、彼が実在したかどうかは不明ですが、彼の影響力は現在でも非常に強力であり、多くの人々が彼を愛し続けています。

結局のところロビンフッドは実在したのか? 歴史的証拠は不十分ですが、彼が実際に存在した可能性は完全には否定できません。

彼が実在していなくても、彼が伝説的な英雄であることは間違いありません。

2023年イギリスから「ロビンフッド伝説切手」10種が発行されました。

その内の一部を紹介します。

1.ロビンフッドは無法者と宣言される。

 

2023年イギリス発行ロビンフッド伝説切手

2.金持ちからお金を奪う

 

2023年イギリス発行ロビンフッド伝説切手

3.死期が迫り最後の矢を放つロビンフッド

 

2023年イギリス発行ロビンフッド伝説切手

 

世界史ミステリー71.モアイ像の謎-

モアイ像は、チリ領イースター島に約900体存在する巨大な石像で、その高さは数メートルから数十メートルにも及び、重さは数十トンから数百トンにもなります。

モアイ像は、12世紀から16世紀にかけて、イースター島に住んでいたラパヌイ族によって建てられたとされています。

この像に彫られた彫刻の技術も素晴らしく、細部まで緻密な刻み込みがされています。

また、ほとんどの像が眺める側に対して「目を見開き、見つめる」といった印象を与えます。

モアイ像の謎とは、その目的や建造方法でモアイ像の目的については、いくつかの説があります。

その一つは、モアイ像が死者の霊を守るために建てられたというものです。

もう一つは、モアイ像が部族の権威を象徴するものだったというものです。

また、モアイ像が太陽神を崇拝するためのものだったという説もあります。

モアイ像の建造方法については、いまだに解明されていません。

 

切手は1965年チリ発行の「観光プロモーション切手」の中の一枚で、モアイ像が描かれています。

 

1965年チリ発行観光プロモーション切手

切手は1981年チリ発行の「観光切手」の中の一枚で、モアイ像が描かれています。

 

1981年チリ発行観光切手

切手は1998年フランス発行の「ユネスコ切手」の中の一枚で、モアイ像が描かれています。

 

1998年フランス発行の「ユネスコ切手

切手は2002年チリ発行の「イースター島・モアイ小型シート」で、切手にはイスター島とそこに住むドゥカフィンチ、シート面にはダンスをする民族衣装の女性と島民の顔、モアイ像が描かれています。 

 

2002年チリ発行イースター島・モアイ小型シート

切手は2007年チリ発行の「観光宣伝切手」で、モアイ像の並ぶイースター島の海岸風景が描かれています。

 

2007年チリ発行観光宣伝切手

 

世界史ミステリー70.ニコラ・テスラの膨大な発明品や設計図の行方は-

ニコラ・ステラ(1856~1943)は、19世紀中期から20世紀中期に活躍した偉大な発明家の一人で、27ケ国で270を超える特許を保持していますが奇抜な発明も数多くあります。

彼の発明は、交流電気方式・無線操縦・蛍光灯・無線通信・無線電力伝送・リモコン・ロボット・レーザーなど現在も使われている技術も多く、また「世界システム」なる全地球的送電システムなどの壮大な構想も提唱しています。

電気や電磁波を用いるテクノロジーの歴史を語る上で重要な人物であり、磁束密度の単位「テスラ」にもその名を残しています。

また彼はエジソンゼネラル・エレクトリック・カンパニーを率いるトーマス・エジソン(1847~1931)との間に電流戦争を引き起こしています。

1880年代後半ニコラ・テスラは"交流送電"を中心としたシステムを提案したが、トーマス・エジソンは"直流送電"を中心としたシステムの構築を進めており、相互に敵対したこの争いを"電流戦争"と言わしめています。

最終的には送電システムは、ステラの提唱した"交流送電"が用いられるようになり現在にて至っています。

イーロン・マスク(1971~)の電気自動車メーカー「テスラ」の社名は、ニコラ・テスラにちなんでつけられたもので、マスクはニコラ・テスラの信奉者として知られています。

ニコラ・ステラの奇妙な発明

1.水銀の同位体を音速の48倍に加速してビームを発生させる殺人光線

2.地震発生装置

3.ワイヤレス送電によって飛行する超音速飛行船

4.自分の思考を撮影するカメラ

5.リモコン操縦艦船

6.人口津波

ニコラ・テスラは、1943年1月7日、マンハッタンのニューヨーカー・ホテルで冠動脈血栓症で死去享年86歳でした。

彼の膨大な発明品や設計図は「アメリカ軍とFBIが没収した」・「ユーゴスラビアを通じてソ連の手にも渡った」と囁かれ、実際はFBIの押収後に複製されて母国に返還され、原版はベオグラードニコラ・テスラ博物館に保管され、2003年にユネスコ記憶遺産に登録されたとされていますが、全てが返されたのではないとの噂は今も根強く続いています。


切手は1953年ユーゴスラビア発行の「ニコラ・ステラ没後10年切手」で、彼の肖像が描かれています。

1953年ユーゴスラビア発行ニコラ・ステラ没後10年切手

切手は1956年ユーゴスラビア発行の「ニコラ・ステラ生誕100年切手」の中の一枚で、彼が発明した誘導発電機が描かれています。

 

1956年ユーゴスラビア発行ニコラ・ステラ生誕100年切手

切手は1959年チェコスロバキア発行の「発明家切手」の中の一枚で、ニコラ・ステラの肖像とともに彼が発明した水銀の同位体を音速の48倍に加速してビームを発生させる装置が描かれています。

 

1959年チェコスロバキア発行発明家切手

切手は2006年セルビア・モンテネグロ発行の「ニコラ・テスラ生誕150年記念小型シート」で、彼の肖像とともに彼の発明が描かれています。

 

2006年セルビア・モンテネグロ発行ニコラ・テスラ生誕150年記念小型シート

切手は2016年セルビア発行の「ニコラ・テスラ切手」で、彼の肖像とともに彼の発明した変圧器が描かれています。

 

2016年セルビア発行ニコラ・テスラ切手

 

世界史ミステリー69.ヤマトタケルは実在したのか?-

ヤマトタケルは、(景行天皇12年~景行天皇41年)は、古事記日本書紀などに伝わる古代日本の皇族です。

日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記され現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用されています。

景行天皇(けいこうてんのう)の生年月日は、日本の伝承によれば、西暦73年8月29日(旧暦では建元元年7月7日)とされていますが、景行天皇は、日本神話の時代に存在したとされる伝説上の天皇であり、その実在性は歴史的には確証されていませんそのため、生年月日も伝承に基づいたものです※

ヤマトタケルは第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたり、熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄です。

最も有名なエピソードの一つは、八岐大蛇(やまたのおろち)との戦いで、ヤマトタケルは、この巨大な蛇を退治するために、神々から与えられた剣「草薙の剣」を使って八岐大蛇を討ち、大和の地を安定させたと言われています。

また、彼とニホンオオカミとの話も有名です。

狼信仰として現在も人気の高い三峯神社、武蔵御嶽神社でも、神社の由緒とされている話で、ヤマトタケルが東征中に山道で霧で迷ったとき白いヤマイヌ(白いニホンオオカミ)が導き助けます(『日本書紀巻第7 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) 景行天皇(けいこうてんのう)』)。

ヤマトタケルは、日本の古代史上の英雄と言われていますが伝説上の人物で実在していないとするのが通説です※

切手は2012年日本発行の「古事記編纂1300年切手」の中の一枚で、ヤマトタケルノミコトが描かれています。

 

2012年日本発行古事記編纂1300年切手

切手は2015年韓国発行の「オオカミの小型シート」で、切手面にはオオカミの親子と大人のオオカミ、シート面にはやはり大人のオオカミと月夜に遠吠えするオオカミのシルエットが描かれています。

 

2015年韓国発行オオカミの小型シート

【おまけの話】

ニホンオオカミの像は、1987年に小川(旧名「鷲家口」)に、東吉野村がニホンオ
オカミの等身大ブロンズ像を建立しました。

ニホンオオカミは1905年(明治38年)、東吉野村鷲家口(わしかぐち)で捕獲されたのが最後とさその後、生存が確認されず絶滅種と認定されたが、村役場の担当者によると「最後の一頭の標本はロンドンに存在し、毛皮の標本と頭骨はロンドン自然史博物館に収蔵されています。

日本国内においては、国立科学博物館、東京大、和歌山大に3体の剥製が残るのみです。

東吉野村ニホンオオカミの等身大ブロンズ像を紹介しておきます。

 

東吉野村ニホンオオカミの等身大ブロンズ像

 

世界史ミステリー68.ルルドの奇跡-

ルルドはフランス南西部に位置するピレネー山脈にある小さな町で、1858年当時14歳のベルナデッタ・スビルー(1844~1779)がこの地で聖母マリアを18回も目撃し、マリアのお告げでベルナデッタが触れた岩の間から奇跡的な治療力を持つ霊泉が湧き出たと伝えられています。

ベルナデッタによって発見された霊水によって不治の病の治癒例が7000件報告されていますが、教会が公認したものだけでも68例にのぼり、ルルドカトリック教会の最大の巡礼地の一つとなり現在も多くの巡礼者が訪れています。

ベルナデッタは、後に修道女となりますが、持病の気管支喘息に加えて肺結核脊椎カリエスといった難病に苦しみながらも、様々な雑用や看護婦としての仕事に従事し、1879年4月16日に35歳の若さでこの世を去ります。

彼女の死後1925年に列福、1933年12月8日、ローマ教皇ピウス11世によって列聖されます。

ベルナデッタによって発見された霊水によって不治の病の治癒例が多く見られ、教会が公認したものだけでも68例に登りますが、特に有名なものとしては、1912年に『血管縫合および血管と臓器の移植に関する研究』でノーベル生理学・医学賞を受賞することになる若き医学生のアレクシス・カレル(1873~1944)目の前で起こりました。

フランスの小説家エミール・ゾラ(1840~1902)の『ルルド』(1894)を読み、単なる好奇心でルルドにおもむいたカレルは、マリー・フェランという名前の末期の結核患者に出会いますが、彼女は重い結核性腹膜炎を患い回復の余地はありませんでしたが、マリーの最期の願いはルルドの泉で水浴をすることでした。

マリーの病状は手の施しようのない程悪く担架で泉まで運んでも途中で亡くなるだろうと思われていましたが、この霊水で回復したことを目の当たりに見て、奇跡に直面し超自然現象に見せられたことを『ルルドへの旅』に記載しています。

切手は1993年トランスカイ発行の「著名人切手8集」の中の一枚で、アレクシス・カレルの肖像とともに負傷兵の血管縫合をしている光景が描かれています。
左下の聴診器のマークは初日印の一部です。

 

1993年トランスカイ発行の著名人切手8集

切手は2001年ミクロネシア発行の「ノーベル賞受賞者切手」の中の一枚で、アレクシス・カレルの肖像とその後ろにアルフレッド・ノーベルの横顔が描かれています。

 

2001年ミクロネシア発行ノーベル賞受賞者切手

切手は2008年サントメ・プリンシペ発行の「ルルド温泉発見150年記念切手」の中の一枚で、聖母マリアの出現と14歳のベルナデッタ・スビルーが描かれています。

 

2008年サントメ・プリンシペ発行ルルド温泉発見150年記念切手

 

世界史ミステリー67.スフインクスの謎-

スフィンクスは、エジプトにある巨大な彫像で、ライオンの胴体に人間の頭を持つ怪物であり、古代エジプトの王権の象徴とされています。

スフィンクスは、ギザのピラミッド群の近くに位置し、その大きさは長さ73.5メートル、高さ20メートル、顔幅4メートルにもなります。

スフィンクスは紀元前2600年頃に建造されたと考えられていますが、その正体や目的は謎に包まれたままです。

スフインクスには以下のような多くの謎があります。

1.建造された目的でスフィンクスは、王の守護神として建造されたという説や、太陽神ラーを象徴したものであるという説など、様々な説がありますが、その真相は解明されていません。

2.建造された年代ですが、紀元前2600年頃に建造されたと考えられていますが、一部の研究者からは、もっと古い時代に建造された可能性があるという説も出されています。

スフインクスの足の部分の地層の侵食からして、建てられた時期は紀元前12000年前と主張する地質学者もいます。

3.スフインクスの顔は、何を表しているのか、また最初からその顔であったのかです。

スフィンクスの顔は、穏やかな人の顔の表情をして王の威厳を今に伝えているとされていますが、この顔は作り変えられたもので以前はイヌの姿をした死者の神、あるいは墓地の神であるアヌビス神の顔であったという説もあります。

4.スフインクスの鼻の破壊された謎です。

鼻は失われており、これはナポレオンがエジプト遠征の際に大砲で壊したと言われますが、これは間違いで、ナポレオン遠征のときには既に鼻は欠けていました。

スフィンクスの鼻が誰によって壊されたのか、その真相は分かっていません。

スフィンクスの謎は、今もなお解明されていませんがその巨大な姿は、古代エジプトの王権の威厳を今に伝えているようです。

 

切手は1967年エジプト発行の「切手の日記念切手」の中の一枚で、イヌの頭部を持つアヌビス神が描かれています。

 

1967年エジプト発行切手の日記念切手

切手は1914年エジプト発行の「エジプトの歴史切手」の中の一枚で、スフインクスが描かれています。

 

1914年エジプト発行エジプトの歴史切手

切手は2003年サントメ・プリンシペ発行の「古代エジプトの遺跡切手」の中の一枚で、スフインクスの横顔が描かれています。

 

2003年サントメ・プリンシペ発行古代エジプトの遺跡切手

切手は1991年エジプト発行の「切手の日小型シート」で、スフインクスとピラミッドが描かれています。

 

1991年エジプト発行切手の日小型シート

切手は1976年マダガスカル発行の「ツェッペリン飛行船75周年記念切手」の中の一枚で、スフインクスとピラミッドの上空を飛行する飛行船ツェッペリン号とフェルディナント・アドルフ・ハインリヒ・アウグスト・フォン・ツェッペリン伯爵(1838~1917)が描かれています。

 

1976年マダガスカル発行ツェッペリン飛行船75周年記念切手

切手は2005年国連ニュヨーク発行の「世界遺産 エジプト切手」の中の一枚で、スフインクスが描かれています。

 

2005年国連ニュヨーク発行世界遺産 エジプト切手