昭和18年(1943)4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六がブーゲンビル島の上空で米軍機に撃墜され戦死した事件を「海軍甲事件」と言います。
この事件には色々の謎があります。
山本長官の戦死を報じた当時の公式発表では、山本長官の遺体の発見状況を"提督は機上で敵弾を受け、軍刀を手に、泰然として戦死しておられた"と発表されています。
軍医の遺体検死記録によると、「死因は戦闘機機銃弾がこめかみ(眦とも)から下顎を貫通した事によるもの」という結論が出され、ほぼ即死状態であったと推察されています。
しかし山本長官が搭乗していた一式陸上攻撃機を銃撃したP-38戦闘機の機銃は12.7mm4門及び20mm1門であり、検死記録の事実通りであれば頭半分は吹き飛ばされているはずです。
こういった疑問点から山本の頭部を打ち抜いていたのは、拳銃弾などの小口径の銃弾であった可能性が否定できず、こういった疑問点から「山本自決説」「第三者による射殺説」が囁かれることになります。
山本長官の遺体を最初に発見した第6師団第23連隊の浜砂盈栄陸軍少尉の証言によれば、「山本長官の遺体は座席と共に放り出されていた、そして軍医長が地を這って近寄ろうとして絶命した痕跡を残していた」とされています。
また、他の遺体が黒焦げでウジムシによる損傷が激しいにもかかわらず、この2名だけはウジムシも少なく比較的綺麗な形で残っていたということからすれば、不時着からしばらくは両名が生存していたということになります。
地上から収容にあたった陸軍第17軍第6師団歩兵第23連隊の蜷川親博軍医中尉の検死調書には、遺体に銃創は無かったとの記述がみられ、山本長官の墜落現場に向かった各部隊の長、同連隊の浜砂少尉・中村見習士官・海軍佐世保鎮守府第6特別陸戦隊吉田少尉も同様に、山本の顔面には弾丸による傷痕はなかったと証言していてますが、前述の4士官の後に山本の遺体を正式に死体検分した田淵海軍軍医少佐は、顔面に銃弾による傷跡があったと証言して食い違いがあります。
蜷川軍医中尉の実弟である蜷川親正博士は、山本長官の遺体には顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創はなく、座席に座って救助を待っていたが、全身打撲か内臓破裂により19日早朝に死亡したものとの見解を示しています。
蜷川博士によれば、検案記録等にある顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創は、機上戦死や即死を演出するために強いて死後損傷が加えられたと語っています。
墜落現場に最初に到着した捜索隊は、機体から運び出されたとおぼしき座席に座り、軍刀に左手を掛けた状態で死亡している山本長官を発見し、彼のそばには山長官に這い寄ろうとしたような姿勢で連合艦隊軍医長高田少将が死亡していた。
そしてほかにも死者は周囲に分散していたが、墜落後の火災で焼かれた遺体の損傷はひどかったものの、焼かれていない遺体の損傷はさほどでもなかったことから墜落の衝撃で機外に投げ出され捜索隊の到着前まで山本長官は生存していたと考えられます。
彼の戦死は直ぐには発表されず戦意を鼓舞する目的で、山本長官の遺体の発見状況を提督は機上で敵弾を受け、軍刀を手に、泰然として戦死しておられたと発表されてたのではないかと推測されますいが、今となっては事実は闇の中です。
いずれにしても山元長官戦死は謎の多い出来事と言えます。
切手は1993年マーシャル諸島発行の「第二次世界大戦シリーズ切手」の中の一枚で、切手左には彼が搭乗していた一式陸上攻撃機、中央には山本五十六連合艦隊司長官、右には米軍のP-38 ライトニングが描かれています。
切手は2001年ミクロネシア発行の「第二次世界大戦・太平洋戦争記念 真珠湾攻撃60年小型シート」に収められた一枚で山本五十六連合艦隊司長官が描かれています。
切手は2010年サントメ・プリンシペ発行の「第二次世界大戦の日本の飛行機小型シート」右上の切手に山本五十六連合艦隊司長官が描かれています。
切手は1995年トーゴ発行の「第二次世界大戦50周年記念小型シート」に収められ一枚で、山本五十六連合艦隊司長官が描かれています。
切手は2022年トーゴ発行の「ミッドウェー海戦80周年小型シート」に収められ一枚で、山本五十六連合艦隊司長官と重巡洋艦最上が描かれています。